2015年4月 7日 (火)

みんな、兵隊さんのおかげです。

しかし終戦、兵隊さんは尊敬、憧れの対象ではなくなった。

 戦時中の兵隊さんは、世間の一番の英雄だった。街で兵隊さん

を見かけると、(お国のために、ご苦労さま)という思いを抱いた

ものである。まして私たち、軍国少国民にとっては、尊敬の的とも

いえる存在だった。学校で、「大きくなったら、何になりたいか?」と

いう教師の問いに、ためらいもなく「兵隊さん」と答えたものだ。

中には、「陸軍大将!」と胸を張る者もいたりした。そういう光景が

当たり前だった。学校では教師たちは、事あるごとに、「戦地の

兵隊さんのことを思え。これくらいのことが我慢できんようじゃだめ

だ」と私たち生徒を叱咤した。家庭でも、「そんな贅沢を言って。

兵隊さんのことを思わんかね」というような、親の小言をよく聞いた

ものである。当時、お国のために戦ってくれているという尊敬の念

は、国中に満ちていた。町内の隣組でも、家族の誰かが出征した

り戦死しているような家は、とても丁重に扱われたものだある。

だから軍神というような神格化された兵隊さんが生まれても、それ

を否定し軽視するような風潮はいささかもなかった。

  しかし、やがて終戦。私たち銃後の国民は、あれだけお国のた

めに戦ってくれていると崇敬していた兵隊さんたちを、敗軍の兵士

として迎えることになった。だが、国民のほとんどは、復員してくる

兵隊さんに、「ご苦労さまでした」という万感の思いを込めて迎えた

ものである。しかし、やがてそれは違った風潮に変わっていった。

  そして (この戦争は間違っていた)(日本は隣国を侵略し、多大

の害を及ぼした)(日本軍は悪の存在だった)(わが国は二度と軍隊

は持たない)などという風潮が支配的になった。こうなると、軍隊を

賛美するのは禁句である。

  学校では教師たちもこの戦争を否定し、軍国主義を悪の思想

だと決め付けた。(あれ、言うことがこれまでと真逆じゃないか)と

当時の軍国少国民は思ったものだが、年端のいかない小学生

程度の思考では、それ以上の考えの展開もなく、(そんなものか)

で終わってしまった、ということである。そして、兵隊さんはもはや

尊敬、憧れの対象ではなくなった。

   しかし、このような風潮は当時の日本国民が自ら生みだしたも

のではない、と思いたい。事実、これはGHQの占領政策のの一環

であったということが、近年物証を以って明らかになっている。

当時、戦勝国としての連合国が恐れたのは、日本国の軍国主義

の復活であったということではないか。その為には、戦争擁護の

風潮を徹底して押さえ込むことであったろうし、それは日本国民に

軍隊蔑視の気持ちを植え込むことであった。このお先棒を担いだ

のは、戦時中はあれだけ国民を煽って戦意高揚を図った変身に

抜け目のないマスコミであり、いわゆる今日、反日左派と呼ばれ

る一派であった、と理解している。

  近年、お国のために命を落とした英霊に崇敬の念を捧げる

ことは国民として当然のことである、という言葉が、だれ憚ること

なく公然と言われるようになった。これは、あたかも愛国的な真の

国民の心の底に封印されていた、当時の兵隊さんに対する尊敬

の念の復活であろう。国民が、お国のために命をかける立場に

いる人たちに、尊敬の念を持たない国は滅亡の道を辿ることに

なる、と思うのだが。

 

 

 

 

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2014年8月 8日 (金)

「君が代」を斉唱する幼稚園児に感動した。

小学生の時、終戦まで私も機会あるごとに聴き、斉唱していた。

 先日、インターネットの或る動画で、幼稚園の園児たちが

朝礼で、全員で声を揃えて「君が代」や「海ゆかば」を斉唱し、

「教育勅語」を声高らかに唱える場面をみて、芯から驚いた。

  そして、私が終戦前の小学生の頃を想い出した。

 終戦の時は、私は小学四年生だったが、この「君が代」や

「海ゆかば」は、学校では事あるごとに斉唱するか、或るいは

録音したものを聴かされていた調べであった。この曲を口にし、

或いは耳にする時には、しごく厳粛な精神状態になったもの

である。

 君が代は、毎朝の、校庭に全校生徒が集まっての朝礼時に、

録音放送でこの曲を聴いた。そして各教室に入るのであるが、

その際には整列して「海ゆかば」を聴くのであった。

     海行かば水漬く(みずく)屍

     山行かば草生す(くさむす)屍

     大君の辺(へ)にこそ死なめ

     かへりみはせじ

  この曲の意味については、すでに先生から教えられていた

から、頭を垂れて聴いている間は、戦地にてお国のために戦っ

てくれている兵隊さんを偲んで感謝の念を持ったものである。

 当時は、「君が代」や「海ゆかば」の調べは、将来は戦士とな

ってお国のために尽くすことを心に強く想起させるものであった。

とにかく、理屈は抜きで幼稚な考えであったかもしれないが、

それなりの軍国少国民であった。

 しかし、そして終戦、「君が代」も「海ゆかば」もどこかに消し飛

んでしまった。それどころか、これらの曲は日本帝国主義や軍国

主義を象徴するものとして悪者扱いにされる始末であった。

 「君が代」は国歌である。国民が国歌を素直に口にしない国、ま

してそれに抵抗し反感を持つ輩がはびこる国はいずれ滅びる。

 小学生の時、「海ゆかば」の曲で、自分を捨てて祖国に尽くすと

いう心情をいささかでも持った。しかし恥ずかしながら成人して

今に老いるまでの間、その心情はどうであったか、ということにな

ればはなはだ慙愧に耐えない。

 日本は、戦後平和でありすぎた。お花畑には、国歌を歌い国を

愛する気持ちや、「海ゆかば」の、古い言葉で恐縮だが、滅私奉公

の精神は育ち難いということか。

 私の心には、軍国少国民の時代に、毎日のように聴かされた

「君が代」と「海ゆかば」の残渣が、心の底に眠っているの感じるの

だが、こう年老いては、なんらの役に立たぬということか。

 それにしても、冒頭の幼稚園児たちの成長が楽しみである。自分

のことはさておき、立派な日本国民になるに違いない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2014年5月16日 (金)

有無を言わさぬ戦時の建物強制疎開

自宅は、土煙を上げて引き倒された、目の前で。

 戦争も半ばになると、空襲への対策として建物の強制疎開が

実施された。これは、空襲に対する防空活動をより効果的に

するために、市街地の各所に計画的に空間を作り、被害を出来

るだけ抑えることを目的とするものであったらしい。

 らしい、というのは、建物の持ち主には懇切丁寧な説明などは

勿論なく、一片の通達をもって何月何日までに住居を退去しろ、

という行政命令であったから、住民の方で推量するしかなかった

ということだ。

 つまり、その背後に、「お国のためだ」という錦の御旗を掲げられ

ては、その通達に理由を質して再考を求めたり、まして異を唱える

ことは、即、非国民の烙印を押されることになるから、そのまま受

け入れるしかなかった。

 当時、田舎の次男坊に生まれた父は、単身小倉に出て来た。

生家は、その地方ではいわゆる豪農で、広い田畑を所有していた

が、長男がいては父は家を出て自力で生計の道を立てるしかな

かったということだ。

   その父は教職を得て、後に「その職に貢献すること顕著なり」と

して勲章を頂くことになり、自力で家を建てその上に数軒の借家を

持つほどに努力したのであったが、この強制疎開でそのすべてを

失うことになった。

 当時、補償金も少しはあったろうと思う。父も母もそのことについ

て口にしているのを聞いたことがなかった。姉や兄たちもも含め

て、そのことは一切家族の話題にのぼることはなかった。私財を

お国に献上することは、国民の当然の義務であり、それについて

とやかく要求をしたり、不満を口にすることは、それすなわち

非国民になり下がるということであった。

 住み慣れた自分の家が、数人の見も知らぬ作業者の手で引き

倒された時の光景は、この歳になってもまざまざと鮮明によみが

えってくる。それは哀しい幼時の記憶の一齣である。

 作業員たちは、壁を打ち壊して柱だけにすると、二階の屋根の

てっぺんにロープを結びつけ、エンヤコラサの掛け声で家全体を

引き倒した。ほんの僅かな時間のことである。当時の木造の家屋

はこのような作業には脆いもので、あっけなく土煙の中に崩壊し

た。母は「とても見ていられない」と言って、私の手を強く引っ張り

ながら片手で顔を覆っていた。

 その時、父はいなかった。学徒動員とかで、生徒を引率して

日田に長期の出張をしていた。母は、「お父さんがいなくてよか

った」と言った。多分、父の長年の労苦の崩壊を見せたくなか

ったのだろうと思う。余談だが、父はこの時、日田で風船爆弾の

気球部分の糊り貼りをしていたそうである。

 家の跡は、戦後も空き地として随分と長い間放置されていた。

戦中はこの地域には大して空襲もなかったし、防空には何の

役にも立たなかったが、この跡地に野菜を植えたりして、戦後

の欠食時期には随分と役立ったものである。この、終戦直後の、

言うなれば日々食料を求めて過ごした餓鬼の時期は、現在の

食に満ち足りた時代からは想像も出来ないことであった。

 しかし、それはそれとして、私には緑の山野に彩られた生まれ

故郷というのはない。あるとすれば、日本の復興に伴った都市

計画に準じて整備された、都会の幹線道路であり、アスファルト

で固められ、日夜、車や人の行き交う喧騒の場所である。

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