朝鮮戦争は嫌だ。--黒人兵の集団脱走
脱走兵は街に逃げ込んだ。
私が高校に入学した昭和25年の7月、小倉に駐留していた米軍25師団24連隊からの集団脱走があった。この部隊は黒人で編成されており、脱走したのはすべて黒人兵であった。
小倉の街は、ちょうど戦後初めて再開された祇園さんの前日で、街中に太鼓の音がしていた。当時、朝鮮戦争は国連軍が北鮮軍に押し捲られ後退を続けていた。この黒人部隊は、数日のうちにこの激戦地に投入されることになっていた、ということである。
後でまことしやかに聞いたことだが、黒人兵たちの間には、明日の自分たちの運命を覚っていて、絶望と厭戦と自暴自棄とがみなぎっていた。そんなところへ祇園太鼓の音とリズムが彼らの黒人生来のノスタルジアを目覚めさせ血を沸き立たせたたのだろう、ということであった。
それはともかく、その日の日没頃、宿舎の柵を約200人の黒人兵が乗り越えて街に散った。彼らは完全武装しており、これに応じて機関砲、機関銃、自動小銃でこれまた完全武装のMPが、ジープに分乗して街中を捜索した。勿論、警察も出動を要請され、当時支給されたばかりのピストルを腰に、警戒に当たった。
私は、その時、高校の生物学部のクラブ活動で、足立山麓の大谷池で水生生物の採取を友人としていたのであるが、土手が笹薮で覆われていたために脱走兵と間違われて、対岸から捜索に来ていた数名のMPにカービン銃で狙撃され、命からがら友人ともども団子のようになって逃げたものである。今、思い出しても、至近のはじけるような着弾音は忘れられない。
市民の被害も多く、暴行、傷害、強盗、窃盗など70件余、それに乱暴された婦女子についてはひた隠しにされ真相は不明という。この黒人部隊は、その後すぐに北鮮戦線に投入されて全滅したということである。
今も、アメリカには人種差別が厳然とある、と聞く。当時はもっと激しかったに違いない。もし、その差別があ時の戦争でアメリカ軍の戦略に影響していたとするなら、彼ら脱走黒人兵が哀れでならない。あれから半世紀、この黒人兵の脱走事件のことは、誤射されて運が悪ければ命を落としたかも知れない私自身のことと併せて、いつまでも記憶が薄れない。
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コメント
はじめまして。
この小倉の事件の事を義理の叔父(s16生)に聞き、調べていたところこのブログに行き着きました。叔父はその時小学生でまさにこの現場にいたそうです。
大麻取締法の立法にあたり、この事件が引き合いに出されたという事を よく覚えているそうです。
大変な時代があったものですね。
よりよく解り 感動しました。
ありがとうございました。
投稿: ogura | 2009年11月 8日 (日) 23時50分
小倉の黒人部隊脱走で検索してここに来たものです。
私は松本清張がこの事件を取り上げていたのをTVのドキュメンタリーで知ったのですが、どの作品に取り上げてられたのかを知りません。ご存知なら教えていただけないでしょうか?
古い記事へのレスで申し訳ありません。
投稿: 唐揚げ丸 | 2009年11月 8日 (日) 21時16分